東日本大震災から5年、FacebookとTwitterの過去ログより自分をふりかえる
- 2016.03.11
- 起業のためのPDCA
- 想い, 感情, 気仙沼市
東日本大震災から5年。
あなたは今日この日、
どんなことを感じていましたか?
こんばんは!
佐藤愛です。
今日、私は、大好きなカフェ、
フルセイルコーヒー仙台一番町店にて、
14時46分黙祷を捧げていました。
津波で亡くなった伯母、
犠牲となった多くの方々を思い。
被災地の復興に向けて、
自分がやることを思い。
けど、油断したらあの時見た映像と、
抱えていた感情が戻ってきて、
胸がきゅーってしめつけられました。
なんだろう、、、
どこか悲しまずにやってきたのかな?
ということで、
毎年3月11日を迎えるたびに、
自分がどんなことを思ってきたのか、
私自身のSNSログからふりかえってみました。
2011年3月11日
地震が発生する前の私の投稿
Twitter
まさか今日この日に育った街が、
大学時代に過ごした街が、
多くの街が津波被害に遭うなんて、
予想だにしてないわけで、、、。
今思えば、
フォーカスしてもしょうがない事象に
意識を向けていたな。
まぁ、そんな余裕があったってことですが。
投稿している余裕があったというか、
投稿することで気を紛らわせてました。
この日の一番最後の投稿は、
気仙沼が火の海になってる映像を見て、
一瞬パニックになったんです。
大切な人たちはみんな
亡くなったんじゃないか
東京に居るであろう弟と私が一緒に
親戚一同のお葬式をあげるのかとか
かなり絶望的なイメージをしてたんですね。
何故なら、この当時はネガティブ思考
まっしぐらだったんで(^_^;)
当時Twitter上での繋がり、
遠くのIT系のSEな人たちから
メッセージもらったおかげで
気持ちを切り替えて眠りました。
一緒にいてくれた同期女子の
存在もかなり大きかった。
Twitter上で情報を探すと、
沢山の方がRetweetしてくれました。
本当に自分ができることをやろうって
気持ちがディスプレイの向こう側に
マジ見えた気がしました。
ちなみに会社に居るけれど、
仕事ほぼしていなかったです。
非常電源が使えたのと、
ネットも繋がっていた環境は
かなり恵まれてる状態でしたが、
情報が無いことにイライラと不安を抱えつつ、
訳の分からない思考になってますた(^_^;)
この日まで、ずっと会社で寝泊まりしてました。
当時の旦那さんが仙台に戻ってきたので、自宅に帰ることに。
日付がバグってますが、2011年3月14日のTwitterのDMログ
33歳の誕生日ということも忘れてて、
同期の子だけが覚えてて、
このメッセージくれて、
本当に忘れられない誕生日に。
本当にありがとうございます。
ここまででログからは個人名が出てたので今は消していますが、
母や伯母の安否についての投稿をしていました。
母の無事が確認でき、伯母以外の無事が確認できた日。
母の無事がわかって、徐々に余裕が出てきた模様。
何故なら、他の人に意識が無くようになっているから(^_^;)
今ならばわかるけれど、人の言動に振り回されてるだけだったわ。
うん。
かなり傲慢さが出てきちゃってますね〜(^_^;)
だんだん情報も増えてきた中、伯母の安否がわからない。
何もやれてない自分に対して、だんだん罪悪感も感じていた頃。
2011年3月19日
震災後8日目
病気の伯父の薬が切れるとのことで、
代わりに病院に行って受け取りに行ったまでは良いけれど、
どうやって気仙沼まで届ければ良いのか・・・。
それに、もともと翌月に開催が予定されていた、
アジャイルジャパン2011の仙台サテライトを開催できたらと。
IT系な人たちを元気にするだけでも、
自分が役に立てることなんじゃないかって思った頃。
2011年3月20日
震災後9日目
郵便局のレターパックだと、届くということを知って、
薬を送ることに。
震災前は当たり前のことが、当たり前じゃなかったんですよね。
遠くの人に物を届けることができるシステムがあるってことも、
幸せなことなのだ。
後日談ですが、伯父には無事薬が翌日には届いてて、、、。
実家帰って、伯父が居る仮設住宅に行くたびに、
「あん時めぐが薬送ってくれてなぁ〜。
ほんとに助かったんだ。ありがとうねぇ。」
って、何度もお礼を言われます。
最初は単純に喜んでもらえて、私も嬉しいってのではなく、
「薬を送るぐらいのことしかできていないのに、
自分はそんなに感謝されるに値しない」
って、思っていました。
無意識的に自分を責めてたんですね。
気仙沼市だけじゃなく沿岸部の被害と、
亡くなった方々の数の多さに、
無力感というか自分はなんて小さい存在なんだと。
起こった直後は、事態があまりにも大きくて、
伯母が亡くなったことが悲しいという気持ちを
きちんと受け止めていなかったように思えます。
震災をきっかけに、
起業を考えるようになり、会社を退職して一年後。
2013年3月11日
震災から2年
3年目のスタートに書いたブログは
アメブロ削除されたのですでにありませんが・・・。
地域に貢献するためにやるんだ〜!
って、気合は十分。
でも、ここでも自分を追い込んでたように思えます。
早くなんとかしないとという思いと、
自分には何もできていないという思いと。
そうやって自分を責め続けてしまったがゆえに、
引きこもりになった2013年12月
参照:起業に挫折して引きこもりでも、絶対に諦められない理由【序】
気仙沼の歴史上、何度も津波被害に遭いながら、
先人たちが街を復興させてきた事実を知り、、、。
「私にもそのあきらめない心、不屈の精神がある!」
って、決めたら復活して活動できるようになりました。
あるって決めれば、あるんです。
人がなんて言おうが関係ない。だって、それは人の基準だから。
まずは、自分で決めると大丈夫なんだと知ったわけですね。
2015年3月11日
震災から4年
重ねた年数から、以前の自分と今の自分を比べて、
何ができるようになったのかって確認。
改めて考えると、やっぱり悲しいという気持ちは
奥底に閉じ込めて来たような気がしてきました。
気のせいかな・・・。
地元に帰った時の沿岸部の写真。
太陽が水面に写ってキラキラしてる。
キラキラしてる。
震災の時は、どす黒い海水の巨大な塊が、
一挙に襲ってきた海なのに。
ずっと同じであることなんて無い。
ツライと感じる時も、大変だと感じる時も、
自分が成長することで乗り越えちゃう。
キラキラしたさらに輝く未来に向かって。
震災後から同じ日をふりかえって、
投稿からその時の自分を考えると・・・。
悲しむよりも前に進まなきゃ。
やることをやっていかなくちゃ。
だって私は被害が小さかったし、
生きてるし、元気なんだから。
ふりかえって、客観的に自分を見つめると、
その時は抑えこんできたもの、
無理してきたことがあるなと。
5年経った今、悲しかったら悲しんでいい。
自分を責める必要なんて無いし、
自分を責めたって誰も嬉しくないから。
やーっと力を抜きながら行動するってことが、
わかってきた感じの私が居ます。
でも、この5年間の経験が無かったら、
今の自分は存在しなかったわけで、
どの経験も自分に学びを与え、
成長させる役割を果たしてくれています。
本当に復興するまで、
どのぐらいの年月が必要なのか、
よくわからないけれど、
必ず復興できるって信じているから。
過去のものは手放して、
本来の自分に目覚めていくように、
行動を積み重ねていきますよっと(≧∇≦)/
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